どこまでも、まよいみち

怪談・美人の宿

昔々、ある薄暗い山の中に、古い宿屋がありました。この宿屋には、たいそう美しい女将がいました。ここに泊まった客は皆、宿にいる間中、その美しい女将の事ばかりを考えて、自分がこれからどこへ行くのかを忘れてしまいそうになるほどでした。しかし不思議なことに客たちは、宿泊を終えてその宿屋を後にするとたちまち、その女将のことをさっぱり思い出せなくなるのでした。ですから皆がこの宿屋のことを言うときには、「あの薄暗い山の宿」だとか、そんなふうにしか言えませんでした。

あるとき、東の国から西の国へ旅をしている旅人が、この山の手前の村で昼飯を食べていました。この旅人の祖父は西の国の生まれでしたが、四十年以上前に東の国へ旅をしてそこに住みつき、家族を持ち、大勢の子や孫に恵まれたのです。この旅人はその孫のうちのひとりでした。そして、祖父が時々話して聞かせてくれていた、祖父の生まれ故郷の西の国を自分の目で見てみたくなったのです。旅人は昼飯をほおばりながら、行く手にそびえる山を見ていました。山はうっそうとしていて薄暗そうで、旅人は少し寒気をおぼえました。山の東側の飯屋の女中はそんな旅人の様子を見て言いました。
「旅のお方、何も心配はいりませんよ。そりゃ、山はちょっと薄暗くて気味が悪いですけど、今から行けば日が暮れる前にはちゃぁんとお宿に着きますから。そこのお料理はとても美味しいと聞いておりますし、きっとゆっくりお休みになれますよ。」
旅人は、まだあどけなさの残る若い女中のその言葉に少し安心しました。そして、昼飯を終えると、その女中におれいを言って飯屋を後にしました。

旅人が山に入ると間もなく、あたりが薄暗くなりました。旅人は空を見上げましたが、見上げたそこには空は見えず、今までになくうっそうと繁った木々の枝葉が重なり合っていました。そして枝葉の隙間から、わずかな木漏れ日がさすばかりでした。まるでこの山は、外界から覆い隠されているかのようでした。旅人はせっせと歩きました。そして、山道の半分まで来て、木漏れ日が夕日の色になったちょうどそのとき、目の前に古い宿屋が見えました。そして宿屋の前には、旅人が来るのをあらかじめ承知していたかのように、女将がニコニコと立って出迎えてくれました。旅人はこの女将をひと目見て、その大変な美しさに驚きました。女将の美しい目はまるで自分を吸い込んでしまうのではないかと錯覚するほど魅力的でした。旅人は、挨拶もしどろもどろにしかできず、手足は震え出し、身体中の血液がごうごうと音をたてて流れはじめていました。部屋に案内され、
「じきにお食事にいたします」
と言い残して女将が出て行き、部屋に一人になった旅人は、何とか気持ちを落ち着けようと努力をしました。旅人は、今まで歩いてきた山の薄暗さ心細さ、そしてこの宿のたいそう古いたたずまいとはまるで似つかわしくない女将の姿に、本当にびっくりしてしまったのです。旅人が今までに見たあらゆる人間の中で最も美しく、夢にもあらわれたことがないくらいの美人だったのですから。そのせいで旅人は、その衝撃をどう埋め合わせしてよいのかわからずに、平常心を保てなくなり、身体が震え出したのです。旅人が自分をこのように分析し終えると、ようやく旅人の身体の震えがおさまり、脈拍も落ち着きました。旅人はじっと考えました。
「それにしても、あの女将の美しさはどうしたことだろう。この世の者ではないかのようだ。なぜあのような美しい人が、こんな山の中で暮らしているのか。あれほどの美貌なら、ふもとにおりて大きな町へ行き、富豪のところに嫁ぐのだってわけないはずだ。望めばもっと明るいところで贅沢な暮らしができように。それがこんな古びた宿で隠れるように暮らしているとは、どう考えても腑に落ちぬ。」

「お客さん、お夕食の支度ができましたよ」
その美しい声に旅人は目をさましました。旅人はうたた寝をしてしまったようでした。旅人は起き上がると、卓の前に座り、器を並べる女将の手を見ていました。若く美しい手でした。それから旅人は女将の顔に目をやりました。そこで旅人は異変に気付きました。女将の顔はまるで、二十年も時を逆戻りしたように若返っていたのです。そしてその目は先ほどとはまるで違い、ガラス玉のように冷めていました。旅人は何が何だかわからず、ただ目を皿のように丸くしたまま、言葉を無くしてその女の顔をみていました。するとそこへ、もう一人、酒を持った女がやってきました。旅人はその女の顔を見て、ああ、と声にならない声を出し、やっと呼吸の仕方を思い出したかのように安堵の息をつきました。その女こそがさっき見た女将であり、器を並べている若い女は別の人間だったのです。女将はくすくすと笑って、言いました。
「まあ、お客さん、すみません。これは私の娘です。あんまり顔が私によく似ているもので、お客さんがたはみんな狐に化かされたようなお顔をなさるんです。一緒にお出迎えすれば良かったのですが、今日に限っていったいどこにいたのやら。本当にすみません」
旅人は女将の話を聞きながら、娘の年はいくつだろうと考えました。姿形は女将と見紛うほどでしたが、さほど歳を重ねた様子はないし、きっと二十歳くらいだろう、と旅人は思いました。すると女将はからかうように言いました。 「お客さん、娘に変な気を起こさないでくださいましね」
ちょうど器を並べ終えた娘は冷めた目で母親を見ると、そそくさと部屋を出て行きました。旅人は、
「ああ、すみません、若い娘さんをじろじろ見るなんて、失礼なことをしました」
と女将に詫びました。女将は笑って、
「いいえ、愛想のない娘で。冗談も通じないのよ」
と言いました。旅人は言いました。
「いや、本当に失礼を。じつは私はあなたのお歳が気になっているんですよ。あんなに大きな娘さんがいらっしゃるのに、あなたはどう見ても子持ちには見えない。これはいったいどういう事情なのか、と」
女将はまた笑って、
「あらいやだ、事情なんて秘密めいた言い方をなさって。あの子は十八、私は四十二。あの子は愛想がないから歳より少し上に見られてしまうし、私はこの薄暗い山にいるせいで肌が老けないのよ。それだけ。」
と言いました。そして旅人にお酒を勧めました。旅人は美人女将のお酌でおいしいお酒とおいしい食事を楽しみました。そして心地よく酔っぱらって眠ってしまい、気付いたときには布団に寝かされていて、食事はとうに片づけられていました。

翌朝、旅人が井戸の水で顔を洗っていると、手拭いを持った女将が旅人に声をかけました。
「おはようございます、お客さん。昨夜はよく眠れました?」
旅人は手拭いを受け取って顔を拭きながら、
「ええ、よく眠れましたよ。いつ眠ったのか、さっぱりおぼえていないくらいにね」
と言って笑いました。女将は笑い返し、
「じきに朝ご飯にしますね、お弁当も用意しましょうね」
と言って台所に引っ込みました。旅人はしばらくその場で、朝の冷たい空気を感じていました。薄暗い山の中とはいえ、朝はやはり清々しい気持ちになるものだ。そう旅人は思いました。すると、
「そこ、使わせてくださいな」
と声がしました。見ると、いつのまにか娘が、洗濯物を持って立っていました。その冷めた眼差しに旅人はドキリとし、慌てて井戸の側からどこうとしました。しかし旅人はよろけて無様に転び、足を挫いてしまいました。すると娘は小さく悲鳴をあげて洗濯物を放り出し、旅人に駆け寄りました。
「大丈夫ですか、ごめんなさい、ごめんなさい」
と繰り返す娘の冷たい目から、つっと涙がこぼれました。旅人にはそれがとても意外に思えました。そしてその瞬間から、旅人はこの娘の様々なことが気になりだしました。まもなく女将がとんできて、旅人の足を見ました。そして言いました。
「お客さん、今日のご出発は無理だわ。安静にしていなくてはいけません。良くなるまでここにいてください。」
旅人は女将の言う通りにするしかありませんでした。部屋に運ばれ、布団に寝かされた旅人は、開けてもらった窓から、薄暗い山の木々の枝葉を見ていました。いくら鬱蒼とした山だとしても、これほどに木々が空を遮っているのは見た事がありませんでした。昼近くになり、女将がやってきて、申し訳なさそうな様子で、何か要りようなものはないかとたずねました。旅人は笑って、
「いや、昼飯の他には何も」
と答えました。それから言いました。
「女将、あの娘は幾つだと言ったかな」
女将は、
「十八です」
と答えました。そして、
「こんな山の中で育ったもので、ぶっきらぼうな子で、申し訳もありません、お許しくださいまし」
と言いながら、深々と頭を下げました。それから、
「あの子にもお詫びに来させます、まだ泣きやまないのです、落ち着いたら必ず」
と言いました。旅人は、
「気にすることはありません、もう充分謝ってもらいました。それより、じっと寝ていなければならないのは退屈でたまらない。話し相手に、あの娘を時々よこしてください」
と、言いました。女将は一瞬ためらったように見えましたが、すぐに、言いました。
「はい、承知しました」
そして静かに戸を閉めると、力ない足取りで去って行きました。

しばらく経った頃、娘が旅人の部屋に昼飯を運んできました。娘は旅人の顔を見るなり頭を下げて、
「先ほどは急に驚かせて申し訳ありません」
と言いました。旅人は娘の顔を見ました。娘はやはりガラス玉のように冷たい目をしていました。この目から本当に涙がこぼれたのだろうかと、旅人は少し自信をなくし、やはり呼ばなければよかったかと思いながら、しかし、娘に言いました。
「もう気にしなくてよいから、少し話し相手になってはくれないか。退屈で退屈で死んでしまいそうだ」
娘は、
「はい」
と静かに返事をしました。旅人は昼飯を食べながら、娘に尋ねました。ずっとここに住んでいるのか、父親はどうしたのか、母親と二人きりで寂しくはないか、時々はふもとへ降りるのか、親しい人はいるのか。娘は、ずっとここに母と二人で暮らしていますが寂しくはありません、父のことは知りません、ふもとへは降りません、私はここに来るお客さんと母以外の人を知りません、と答えました。旅人は、この娘を不憫な娘だと思いました。母親と宿の客以外の人間を知らず、ここから一歩も出たことがない。親しく遊ぶ友達もいない。娘本人は自分をそんなふうには思っていないとしても、旅人はこの娘に同情する気持ちを抑えることができませんでした。旅人は、質問を続けました。
「女将は、なぜこんな山の中で暮らし続けているんだい。ふもとへ降りて町へ出れば、もっと別の暮らしができるだろうに。そう、あの美しさなら、裕福な伴侶だってすぐに見つかるだろうし、それにきみだって、ここに居続けるよりはそのほうがきっと良い暮らしができる」
すると娘は旅人の言葉をさえぎって、
「母は、ここの暮らしが好きなのです。母はここからけっして出ません」
と言いました。旅人はおやと思い、
「君と女将は、ここから出る出ないという話をしたことがあるのかい?」
とききました。娘は困った様子で、すいと立って部屋を出て行ってしまいました。そしてそれきり、その日は部屋に戻っては来ませんでした。

夜になり、窓の外の月を見ながら、旅人は昼間のことを思い出していました。
「娘は今まできっとあんな質問などされたことがないのだろう、だから少し動揺してしまったのに違いない。一夜の宿を借りる間に、いかにも事情のありそうな親子に、その事情を根ほり葉ほり聞き出そうとする無神経な男など、きっと他にはいなかったのだ。そうだ、聞かれたくない事情があるから、こんな山奥でひっそりと暮らしているのだ。きっとそうだ。」
そう、旅人は思いました。
「自分が娘を不憫に思い、この薄暗い山から出してやりたいと思う気持ちばかりでものを言ってしまったが、それは私の勝手な考えでしかない。」
旅人は娘を困らせたことを少し後悔していました。月は娘の冷たい目のようでした。旅人はふいに、あることに気付きました。
「この山は、昼間は木々の枝葉で空が見えないのに、今は空に浮かぶ月がはっきり見える。・・・なぜだ?」
旅人は背筋にぞくっとする嫌な感覚をおぼえました。何もかもがどうも妙だ。ここは本当に私の知っている世界なのだろうか。まるで外界から隠されているようなこの山、この宿。そして、この世の者とは思えないあの母娘の美貌、娘のあの冷たい目。ここは、尋常な世界ではない。そう、ここは、尋常ではない! 旅人が恐怖のあまり自分の身を案じたそのとき、部屋に入ってきた娘が旅人の様子に気付きました。とっさに娘は旅人の口に薬を嗅がせ、旅人を気絶させました。

旅人は気を失ったまま、何日も宿に寝かされていました。そしてある夕方、再び目をさましたとき、旅人の足はすっかり良くなっていました。そこには女将がいて、まるで何事もなかったようににっこりと微笑み、
「ご気分はいかがです? お客さん、ずっと目をさまさないので心配したんですよ」
と言いました。女将のそばには娘がいて、やはりガラス玉のような目で、旅人を見ていました。旅人は、娘の嗅がせた薬のせいで、足を挫いてから後のことは何もおぼえてはいませんでした。旅人は不思議な気持ちで夕食を済ませました。夜も更けて、そろそろ休もうと思った頃、娘がお酒を持って部屋に入ってきました。旅人は少々困惑しました。女将ならともかく、娘が相手ではゆっくり酒を味わえない。そう旅人は思いました。旅人は娘の冷たい目が、どうしても苦手でした。しかし娘は、
「怪我をさせてしまったお詫びです」
と言って、部屋から出ようとしませんでした。旅人は、では少しだけ、と答えました。娘は押し黙って、ただ旅人に酒をつぎました。旅人は、二、三杯飲んだら娘を帰すつもりでした。しかし、旅人は娘の注いだ酒を一口飲んだとたん、自分が誰だかわからなくなりました。もう一口飲んだときには、娘がいったい誰なのかもわからなくなりました。娘は旅人のその様子を見て、にやりと不敵な笑みを浮かべました。娘のガラス玉のような目の奥には、冷たさのかわりに、煮える油のような熱さがありました。その目に見つめられた旅人は、ものを考えることができなくなりました。娘はもう一度旅人に酒をつぎました。旅人はそれをぐいと飲みほしました。すると旅人は人間の理性を無くしてしまいました。そしてただの乱暴な男になり、娘を欲望の餌食にしてその夜を過ごしたのです。

翌朝、旅人は何もおぼえてはいませんでした。目が覚めたときには部屋は整然としていました。外で顔を洗い終えると、女将が手拭いを持って来ました。そして、洗濯物を持った娘もやって来ました。娘の様子におかしなところは何一つなく、そのガラス玉のような目はやはり冷たい目でした。旅人は、この冷たい目が苦手でした。朝食を済ませ、女将が用意してくれたお弁当をたずさえて、旅人はこの宿を後にしました。見送る女将を一度振り返ったときには、たしかに女将はそこにいて、女将の美しい魅力的な目がそこにありました。しかしもう一度振り返ったときには、女将の姿はありませんでした。その瞬間から旅人は、そこに女将がいたことも、女将にそっくりの娘がいたことも、思い出せなくなっていました。旅人は薄暗い山道を抜けて、ふもとの村に着きました。それからその後も旅を続け、無事に西の国へ着きました。

それから四十年もの時が経ち、旅人は西の国でたいへん裕福になり、たくさんの子や孫に恵まれました。旅人は子守歌がわりに、自分の子や孫たちに、自分の生まれた東の国の話を聞かせました。自分のお爺さんがこの西の国で生まれて東の国へ旅をしたことや、自分はお爺さんの生まれた国を見たくてこの西の国へ戻ってきたことも話して聞かせました。たくさんの孫たちは、自分のお爺さんやそのまたお爺さんのことをたいへん面白がって聞きました。そして、旅の途中での珍しい話や怖い話などをさかんに聞きたがりました。旅人は求められるままに面白可笑しく話をしてやりました。あの薄暗い山の宿の話もしてやりましたが、不思議なことに、あの宿にいた母娘の事は全く何もおぼえてはいなかったのです。ですから孫たちに、
「その宿にはどんな怖い人がいたの?」
とか、
「幽霊がいたの?」
と聞かれても、さっぱり何も思い出せずに、その時々で適当に作り話をして聞かせるほかありませんでした。あるとき、ひとりの孫娘が友達と遊んでいました。そこへ旅人が通りかかりました。孫は旅人を呼びとめて、お話をしてちょうだいと言いました。旅人はその場に腰かけて、どんなお話がいいかな、と言いました。孫娘は、
「山の宿の話!」
と言いました。これには理由がありました。旅人はあの宿の話のときはいつも作り話をするので、孫たちはその話のすじがいつもいつも違っている事を不審に思って、
「きっと本当はすごく怖いお化けがいて、驚いたお爺さんはおもらしして泣きながら逃げてきたんだ」
などと言い合って、いつかお爺さんがそんなような事を告白するのではないかとワクワクしているのでした。そんな事とは知らない旅人は、またいつものように適当に作り話をしてきかせました。すると孫娘は、真剣な顔をして言いました。
「ねえお爺さん、お爺さんは本当は、宿の幽霊が怖くて泣きながら逃げてきたんでしょう? それが恥ずかしいから、いつも違う話をしているんでしょう? ねえ、私はお爺さんのことを笑ったりしないから、本当はどんなすごい幽霊がいたのか教えて!」
これには旅人は困りました。孫たちは自分の作り話には満足していなかったのです。でも、何一つおぼえていないのですからどうしようもありません。すると、孫娘の友達がこんな事を言いました。
「私のお父さんも、東からの旅の途中で山の宿に泊まったって言っていたよ。そうして、やっぱりその宿に誰がいたのか、なーんにもおぼえていないんだって。」
旅人はこれを聞くと、急にあの山にもう一度行って、宿の存在を是が非でも確かめたい気持ちになりました。今まで旅人は、正直なところ、あの宿そのものが自分の夢ではないかと思っていたのです。宿にいた人の事を何もおぼえていないなんてばかな話はありえないと思っていたのです。しかし、宿は確かに存在していると、この孫娘の友達の話によって確信したのです。そして、その宿に誰がいたのか、旅人は確かめずにはいられなくなりました。

旅人は、四十年前に自分が泊まったあの山の宿にもう一度向かうことにしました。ぽっかりと抜け落ちている自分の記憶を埋めなければきっと悔いが残る、そう思いました。旅人は家族たちに心配しないようにと言い、孫たちには
「あの宿にどんなお化けがいるのか見てくるから、帰りを楽しみにしているように」
と言いました。孫たちの何人かは、お爺さんがお化けに食べられてしまうのではないかと心配して引きとめましたが、残りの大勢の孫たちは、お爺さんのお化け退治話を大変楽しみにして旅人を送りだしました。旅人はもう年寄りでしたから、ゆっくりの時間をかけて、かつて旅をしてきた道を辿って行きました。そしてついに、あの薄暗い山の手前の村までやって来ました。旅人は山に登る前に腹ごしらえをしようと、村の飯屋に入りました。そして昼飯を頬張りながら、行く手にそびえる山を見ていました。山はうっそうとしていて薄暗く、以前とまったく同じように見えました。旅人は、背筋にぞくぞくと寒気を感じました。旅人のそんな様子を見て、山の西側の飯屋の女中は旅人に言いました。
「旅のお方、何も心配はいりませんよ。そりゃ、山はちょっと薄暗くて気味が悪いですけど、今から行けば日が暮れる前にはちゃぁんとお宿に着きますから。そこのお料理はとても美味しいと聞いておりますし、きっとゆっくりお休みになれますよ。」
旅人は、まだあどけなさの残る若い女中のその言葉を懐かしく聞きました。そして、昼飯を終えると、その女中におれいを言って飯屋を後にしました。

旅人が山に入ると間もなく、あたりが薄暗くなりました。旅人は空を見上げましたが、見上げたそこにはやはり空は見えず、うっそうと繁った木々の枝葉が重なり合っていて、枝葉の隙間からわずかな木漏れ日がさすばかりでした。旅人はせっせと歩きました。そして、山道の半分まで来て、木漏れ日が夕日の色になったちょうどそのとき、目の前に、懐かしい古い宿屋が見えました。そして宿屋の前には、旅人が来るのをあらかじめ承知していたかのように、女将がニコニコと立って出迎えてくれました。女将は大変美しく、暖かい目をしていて、そしてなぜか旅人に懐かしさを感じさせました。旅人は気付いていませんでしたが、四十年前に同じように出迎えてくれた女将に大変よく似ていたのです。部屋に案内された旅人は、この美しい女将に言いました。
「この宿は、だいぶ古いようですな。」
女将は、
「はい」
と答えました。するとそこへ、老婆がひとり、お茶とお菓子を持って現れました。旅人は、この老婆の目におぼえがあるような気がしました。歳をとっているとはいえ、まるで自分を吸い込んでしまうかのような美しい目をしていました。しかし、やはり旅人は何も思い出せはしませんでした。女将は、
「じきにお夕食にいたします」
と言って、部屋を出て行きました。老婆も、
「ごゆっくりなさいまし」
と言って、部屋を出て行きました。旅人は、部屋の窓から外を見ました。薄暗い木々の枝葉の隙間から、夕日の色がちらちらとこぼれはするものの、大きな空は見えませんでした。まるでこの山とこの宿は、すっぽりと外界から隠されているかのようでした。旅人はふところから小さな帳面を出して、宿の様子を書きつけました。

「お客さん、お夕食の支度ができましたよ」
その美しい声に旅人は目をさましました。旅人はうたた寝をしてしまったようでした。旅人は起き上がると、卓の前に座り、器を並べる女将の手を見ていました。そこへ、先ほどの老婆が、お酒を持って入ってきました。器を並べ終わった女将は、旅人にお酒をすすめました。その横には老婆が静かに座って、ニコニコと旅人を見ていました。旅人は、おいしいお料理とおいしいお酒と美しい女将のおかげですっかり良い気分になりました。そして、孫たちのことを思い出して、クックと笑いだしました。女将は言いました。
「あら、何か楽しいことがありましたか」
すると旅人は言いました。
「孫たちの事を思い出しましてな。じつは私は四十年前にもこの宿に世話になったことがあるのですが、不思議なことにそのときの事をなんにもおぼえておりませんで、そのことを孫たちにからかわれておるのです」
女将は、
「あら、どんなふうに?」
と聞きました。旅人は言いました。
「お爺ちゃんはその宿のお化けが怖くて泣きながら逃げてきた、だから恥ずかしくて本当のことを言わないんだ、と」
女将は、あら可愛いこと、と言ってとくすくす笑いました。しかし、そばに座っている老婆はにこりともせずに旅人を見ていました。旅人は続けました。
「私は不思議なことに、この宿の事はおぼえていたんだが、ここに誰がいたのかを全く、この今ですら思いだすことができないのです。いったいこれはどうしたことか。」
そして旅人は老婆を見ると、
「そうだ、もしかしたらあなたがいたのではないですか。そうだとしたら、あなたは私をおぼえてはいませんか、おばあさん」
と聞きました。老婆は、笑っているのか、怒っているのか、どちらともつかぬ顔で、言いました。
「四十年も経ちますれば、お客さんも大勢ですから、残念ながらわかりませんです」
旅人は、
「そうですか、それは残念。いや、お気になさらんでください」
と言ってすまなそうに頭を下げました。女将は、
「さ、もう少しいかがですか」
と言いながらお酒をつぎました。そのあとも美しい女将のお酌は続きました。旅人はいつのまにか心地よく酔っぱらって眠ってしまい、気付いたときには布団に寝かされていました。食事はとうに片づけられて、窓の外には冷たい月が浮かんでいました。旅人は起き上がってふところから小さな帳面を出すと、月のあかりを頼りにここの様子を書きつけました。

翌朝、旅人はまだ薄暗いうちに目がさめました。冷たい月はまだその姿を空に残していました。きっと宿の者はまだ寝ているだろうと思い、旅人は、明るくなるまで少し外を散歩することにしました。旅人は服を着替えると、そろそろと足音をたてないように気をつけて部屋を出ました。それから静かに戸を開けて宿の外に出ると、昨日歩いてきた山道をぶらぶらと歩き出しました。なにしろ土地勘のない山の中ですから、道をそれて迷ってしまわないように用心したのです。旅人はもちろん、少し歩いて朝の空気を味わった後には、宿に引きかえすつもりでした。ところが、夜が明けきらぬうちに旅人の部屋に様子を見に来た老婆が、旅人がいなくなっていることに気付き、急いで皆を起こし、この事を告げました。女将は言いました。
「荷物もそのままのようだし、お散歩でもなさっているんじゃないかしら」
しかし老婆は、
「あのお客、もしや四十年前の事を思い出したのではなかろうか。それで慌てて荷物も持たずに・・・」
と、怖い顔で言いました。女将は、
「では姉さんはあのお客をおぼえているんですか?」
と聞きました。すると老婆は、
「もちろんだ。おまえの父親の顔を忘れるものか」
と言いました。女将は息をのみ、そして母親に向き直り、
「本当なの、お母さん?」
と、恐る恐る聞きました。すると、女将の母親がうなずきました。そして言いました。
「あの男がおまえの父親であろうがなかろうが、いつものように記憶を消して帰してしまえばそれで済むことだ。いや、済むはずだ」
女将と老婆は、青ざめた顔で母親を見、母親の次の言葉を待ちました。母親は言いました。
「とにかく、本当に散歩に出ただけかもしれないから、お前たちは戻ってきた客に怪しまれないようにしていなさい」
「お母さんはどうするんですか」
と二人が言うと、母親は
「私はあの男を探して様子を見る。戻ってくるようなら私はこのまま姿を現さないでおこう。しかしそうでないなら生かしてはおけん」
と低い声で言い、大きなカマを持って宿を出て行きました。

旅人は、呑気にゆるゆると山道を歩いていました。そして、時々上を見上げては、白んで行く空の様子を楽しみました。それを見つけた母親は、
「慌てて逃げているわけではなさそうだ、やはり散歩か。」
と思い、ほっと胸をなでおろしました。それから旅人に見つからないように、木々の陰に身を隠しながらあとを追いました。旅人はその人影にはまったく気付く様子もなく、ゆるゆると歩き続け、ときおり空を見上げていました。ところが急に、空を見上げていた旅人の視界から、その大きな空が消えました。まるでいっせいにカーテンが引かれたかのように、木々の枝葉がぎゅるりと伸びて山を覆い、あたりは真っ暗になりました。木々はいつものように、山を昼の世界から覆い隠したのです。これに旅人は驚き、そして、とてつもなく大きな恐怖に襲われました。旅人は、
「この山にいてはいけない」
と一瞬のうちに悟り、命がけで走り出しました。それを見た母親は慌てました。
「このまま逃げられてはいけない、あの男を殺さなければ!」
母親はカマをしっかり握って旅人のあとを追いました。旅人は追われているとは知らず、ただこの山から一刻も早く出なければという一心で走りました。走って走って、まるで転がり落ちるような勢いで旅人は走り続けました。旅人の老いた脚は悲鳴をあげていましたが、それでも構わず旅人は走りました。母親も必死で旅人のあとを追いました。そしてもう少しで旅人が山から出られるというそのとき、旅人は運悪く転んでしまいました。そして、倒れた旅人の目の前に現れたのは、手に大きなカマを持った若い女でした。その女を見た旅人は驚いて心臓が止まりそうでした。そしてその女の、ガラス玉のように冷たい眼差しに旅人は背筋を凍らせました。旅人はすべての記憶を、このとき取り戻したのです。女は旅人に言いました。
「あら、急に驚かせてすみません、足は大丈夫かしら?」
旅人はこれを聞いた瞬間、恐怖のあまり、バネのように跳び起きてまた走り出しました。旅人は大声で、
「殺される、殺される、助けてくれ!」
と叫びながら山道の残りを走りきり、ついに山から出ることができました。すると遠くで野良仕事をしていたふもとの村の人たちがこちらにかけよって来るのが見えました。旅人はほっと安堵して、足を止めました。するとその旅人の後ろの山道から、手に大きなカマを持った鬼婆が、恐ろしい形相で現れました。化け物は薄暗い山の中では姿を誤魔化すことができても、山の外ではその正体を隠しきることはできないのです。恐ろしい鬼婆を見た村人たちは息を呑みました。しかし、我を忘れて旅人を追いかけてきた鬼婆のほうも村人たちの姿に驚いて、一瞬凍りつき、そしてぐるりと後ろを向いて飛ぶように引きかえして行きました。村人たちはしばらく呆然としていましたが、そのうちじわじわと恐ろしさが込み上げてきて、キャアキャアと大騒ぎしながら村に走って行きました。そしてその日のうちに山の入口は封鎖され、その後誰一人としてこの山に入る者はいませんでした。

旅人は西の国へ帰り、ぶじにまた家族と再会することができました。皆は旅人の無事を喜び、孫たちはわくわくしながらお爺さんのお土産話を聞きました。お爺さんの話はそれはそれは恐ろしく、孫たちはすっかり満足したのだそうですよ。

2008.11.24

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