どこまでも、まよいみち

私が昔話を好きな理由

私はとっくに大人になっているのだけれど、なぜだか今でも昔話が好き。それはたぶん、こんな理由があるから。

2007年にブログに書いた記事を少し手直ししました。

捜し物

私は本が好きな子供でした。そのころ本棚にあったのは童話や昔話でした。本棚といっても四十~五十センチほどの空きスペースに本を立ててあるというだけの粗末なものでしたから、本の数も知れています。ですから色々の本を次々に読むというのではなく、そこにある本を繰り返し読むのが私の読書でした。読むだけでは飽き足らず、挿絵に色鉛筆で塗り絵もしました。五粒の豆の絵、中国の菊と女の子の絵、友人のお金を持って逃げてしまった男の絵、水の精やパンの精の絵。色を塗れば絵は綺麗になるはずでしたけれど、塗る前の墨一色の絵の方が美しいように感じられることもあって少し不思議な気がしたのを覚えています。

小学校の二、三年生くらいまではそんなふうに過ごしていました。そして次第に私の興味は「お話」から「漫画」に移って行きました。わずかなスペースの本棚にはお話のかわりに漫画が置かれました。少女漫画は自分の中だけでは到底作り出しえない夢の世界を次々と私に見せてくれたので、私の心は当然のように漫画に占領されました。しばらくの間私はすっかりその夢の世界に夢中になっていました。

やがてその熱もだいぶ冷めた頃のことでした。十代の終わりから二十代にかけて、時々昔話のことを思い出して図書館へ本を読みに行くことがありました。しかし私が図書館で選んでいたのは昔話そのものではなくて「昔話のあのお話やあのエピソードは本当はこういう意味があるのだ」といった類の昔話解説本でした。実際に昔読んだような本を子供向けの棚から選んで読んでみても、昔と同じように面白く感じられなかったのです。

昔話を読む(与えられる)年齢では、一日中本を読んでいても飽きることはありませんでした。しかし小学校高学年になると与えられるものも周囲の友達が読んでいるものも写実的物語に移行し、それを読むときの自分の気持ちは今までとは確実に違いました。心底から楽しめない。ちょっとした、他者との葛藤に似たつらい気持ちを感じるのです。そして以前ほど本を読まなくなりました。そうして、子ども時代にあれほどに心をうばわれた昔話が懐かしくなったのです。でももう、私が読んだような本がどうしても見つからない。

私が読んでいた本はもう絶版になっていて読むことはできないのだなと思いました。挿絵もつまらないものばかりでした。昔話は私の記憶の中と現実の書物の中でだんだん違うものになっているような気がしていました。お話の当時の衣装や町並みを見ればもっとお話が面白く感じられるのではないか、と私は考えました。そのような写真や絵の載っている本は捜せばすぐに見つかりました。私は期待いっぱいでページをめくりました。でもおかしなことに、私の心はページをめくるごとにどんどん興ざめして行くのです。お話と、写真や絵の中のものがまるで別の世界のようでした。

いったいどこを捜したら、私の心にぴったりするあの懐かしいお話が見つかるのか、本当にわからなくなりました。そんなことは不可能なのだと思いました。「今のお話の文章は書き替えられて挿絵も風情のないものに変えられてしまっているんだ。いくら昔を懐かしんでももう昔には戻れないんだ。そしてきっとこの先はどんどんつまらない時代になってゆくんだ。」と、私はひどく落胆していました。

だから昔話そのものよりも、昔話についてあれこれと何かを言っている人たちの文章を読むほうがよほど私には面白く感じられました。そしてお話そのものよりもこちらのほうが、自分の捜しているものに近いような気がしていたのです。自分と同じように昔話を懐かしむ人たちの熱い語りを聞いているようでした。

捜し物は中途半端なまま日々が過ぎました。そして三十三歳のとき私は体調を崩し、奇妙な腹痛に襲われました。それは普通の生理痛とは明らかに違いました。歩行や座るなどのわずかな腹部の振動でも腸に痛みを感じ、お手洗いでは跳び上がるほどの激痛がありました。悪夢のようでした。その期間はじっと横になって一分一秒が過ぎてゆくのを待つしかありませんでした。

私は自分の病名を勝手に推測していました。そして横になりながら、半分死んだような気持ちになっていました。この痛みがこの先ずっと続いたら、生きていることが痛みを我慢することとイコールになってしまうのは目に見えていました。痛みを我慢するために生きているなんて、意味のない人生に思えました。

そして、ふと、違うところへ気持ちが飛びました。私の推測していた病名は決して珍しい病気ではなく、患者さんは沢山います。その沢山の人たちは皆、毎月の激痛をこらえながら今までもこれからも生活するのです。その人たちは痛みを我慢しながら何を思うのだろう?もしかしたら皆は本当は痛みや吐き気や何かを必死にこらえる時間を持っているけれど、それを見せたりすることなどせずに懸命に生きているのではないか?そうだとしたら、皆は何を心の支えにして生きて行こうとしているのだろう。大事な家族はもちろんだけど…では、他には?痛みを少しでも忘れさせてくれるものは何?元気のもとは何だろう?私の場合はそれは何?

意外なことに私の答えはすっと浮かびました。それは子供の頃に親しんでいた童話や昔話でした。正確には、ある一編の綺麗で不思議なお話でした。懐かしい心地よさが、私の痛みを一瞬の間どこかへ消してくれました。そのとき私は思いました。「今感じているこの気持ちで充分に事は足りている、捜し物はもうおしまいでいい」と。

思い浮かんだお話は「やぶれたおどりぐつ」でした。十二人のお姫さまが真夜中になると寝台を床に深く沈め、そこにあらわれた階段を降りて別の国へ行き、その国の舞踏会で靴が破れるほど踊って戻ってくる。朝になると娘達の靴がぼろぼろになっているので、王さまは不審に思い探りを入れる…といった筋書きでした。不思議なエピソードばかりだったので、当時、盛んに想像力を駆使してお話を味わいました。その想像したイメージがまだ心に残っていて、今また懐かしくよみがえってきたのです。この心地よさがあれば、生きる元気を出すことができる。そう確信しました。

後日病院で検査を受けたのですがどういうわけか異常は見つからず、痛みのほうも三ヶ月後には「もう用事が済んだ」とでも言うように消えてしまいました。

2012.05.30

  背景画像:フリー素材 * ヒバナ