どこまでも、まよいみち

おにぎりみたいなお話作り

昔話みたいなお話を作る方法を探りたいと思ったけれど、昔話の特徴などをあげつらねたりしただけで、結局「方法」として成立させられなかった…という、2007年にブログに書いてた記事をまとめたもの。

自分なりのお話の作り方を探る

2007年に、昔話ふうのお話を作る方法を模索する目的でブログに「おにぎりみたいなお話作り」というカテゴリを作り記事を書きました。いずれこのカテゴリを電子書籍にでもまとめてみようと思ってはじめたのですが書いてそれっきり。今になって見直すと「これちょっと違う」と思うところもあるんですが、今でも使えるところも充分あり、また当時の自分の気持ちなんかもその記事に残っていて面白かったので、ここにまとめて置いておくことにしました。(結局、「方法」として成立していません)

ここでの参考文献はおもにこの二冊
「昔話の本質と解釈」マックス・リュティ著 野村ヒロシ訳 福音館書店
「働くお父さんのための昔話入門」小澤俊夫著 日本経済新聞社

土曜日のお昼ご飯のようなお話 / 2007.5.1

私は「小昔話(こむかしばなし)」と題して短いお話をいくつか作っています。昔話のように『昔々あるところに…』で始まるお話です。

長い時間をかけてたくさんの語り手さんたちが語り継いできた本当の昔話ではなく、私の作る「小昔話」は一個人が作った創作のお話です。だけれど、もし何年も何十年も何百年も経った後に、私の作ったお話が『むかしむかし…』とどこかで語られていたら嬉しいなという思いをこめて、昔話という言葉の入ったタイトルを使わせてもらっています。今、あるいは将来どこかにいるかもしれない「昔の自分」のような子どもたちにお話を楽しんでもらえていたら、私はたいへんに幸せです。

昔話は「あたたかいおにぎりと、あたたかいみそ汁と、あたたかい卵焼き」のようなお話だと、私は勝手に思っています。土曜日の半日授業が終わって学校から帰ってくると、母親がお昼ご飯を作ってくれる。素朴だけれどあたたかくて美味しくて、大きな安心感と満足感でいっぱいになる。そんなふうなお話。本当の昔話の持つ深みを作品に盛り込むのは私には不可能ですが、「素朴であったかくて面白く、すとんと気持ちがおさまるお話」という性質はできる限り生かしてお話作りをしたいと思っています。それから、もし誰かがお話を覚えて語ろうとするときにはそれが易しいこと、も心がけたいと思います。

この本を書く過程で、このようなお話をだれでも簡単に作れる方法を見つけることがもしもできたらいいな、と思います。だれでも、と書きましたが、そこには私自身も含まれています。つまり「お話を作る方法」は私自身が欲しくてやまないものなのです。

今まで私は、ノートに向かって(あるいはパソコンに向かって)、少しずつ文章を書き進めて、なんとなくお話を作ってきました。お話はいつもきちんと出来上がるわけではありませんでした。うまくすじが進まなくて途中で投げ出したり、四苦八苦の末になんとか形になったり、そんなお話がたくさんあります。もう少しうまく進める手順がわかっていれば、ラクに楽しくお話が作れるのに。と、私はいつも思っていました。

「もっと長くて読みごたえのある、映画になりそうなファンタジーや小説が書ければ良いのに」という思いも本当はあるのですが、私にはとてもこなせませんでした。私でも形にできたのは、この短くてシンプルな語り口のお話がやっとでした。でもそれでも私はお話作りができるようになった事で満足でした。そしてあるときふと、こう思いました。「私に作れているのだから、昔話は作りやすい形をしているのかもしれない」と。そしてもしかしたら、「お話を作る方法」が見つかるかもしれないと思いました。

そうしたら、私はもっとたくさんお話を作ることができます。それはきっと素晴らしく嬉しいことに違いないと思うのです。

作りやすい形だと思ったのはなぜか / 2007.5.1

私が『昔話は作りやすい形をしているのかもしれない』と思ったことはすでに前ページで書きました。その理由は二つあります。「私にも作れているのだから」というのが理由の一つですが、なぜ私にも作れているのかという詳細は後に詳しく書くことにします。もうひとつの理由は「もしかしたら昔話の語り手たちも『お話作り』をしてきたのではないかな」と思ったからです。

昔話はもともとは、語り手が自分で覚えているお話を声を出して喋って聞かせて「お話をして」いたのです。自分が子供のときに聞いて覚えたお話を、今度は自分が小さな子どもたちに話して聞かせます。昔話はこうして長い間語り継がれてきたものです。一人の作家が紙に書きつけた作品ではなく、ましてやそれを一字一句正確に読んで聞かせていたものでもありません。

だから語り手によっては、その口で話をするたびに「少し面白く変えてやろう」とか「ここはいつもしっくりしない気がするから端折ってしまおう」とか、あるいは聞き手に合わせて「あの子の好きな別の話のエピソードをくっつけちゃおう」とか、そんな事がきっとあったはずだと私は思っています。そして、昔話というもの自体もそれを許してくれるかたちを持ったお話なのではないかな、と思うのです。

「語られるための形」は頑固に保持されつつも、その内容は語られる土地や時代や、あるいは小さな環境によって容易に変化が可能なのだと思うのです。「素人の作り手にとって作りやすい」形を昔話は持っているのだと、素人である私は強く感じています。

リアルにしなくてもよい / 2007.5.2

昔話のようなお話が作りやすかった大きな理由は、まず、シナリオや小説のようにリアルにする必要がなかったことです。

シナリオや小説は時代や場所が決まっているので、きちんとその時代や場所で話が進んでいるようにしなくてはなりません。たくさんの調べ物や取材が必要です。それは過去の物語も現在の物語も同じですし、もし未来のことを書くとしても、自分なりにその時代の様々な環境を設定しておかなくてはなりません。そして登場人物についても、そこに一人の人物をきちんと感じさせなくてはならないので、その人物の性格や背景、生い立ちや家族構成、信念やトラウマなど、実際に書かないような細かなことまで考える必要があります。これらの作業にはたくさんの時間がかかる上に、私の場合は精神的にも負担でした。じつは私はマンガのシナリオを書こうとしたことがあったのですが、とても気持ちが重たくて完成させることができませんでした。

その点、昔話は「むかしむかしあるところに…」と始まります。つまり時代も場所も特定されません。これでまず、時代や場所についての調査や設定は必要ではなくなります。登場人物についても同じで、「ひとりの子どもがいました」とか「気だてのいい若者がいました」というふうに、はっきり個人を特定しません。「気だてのいい若者」を、「どこそこに住んでいる誰々さん」と特定しないので、詳細な性格や背景や生い立ちや家族構成や信念やトラウマなどを設定せずに済みます。

お話のなかではきちんと一人の人物として動かさなくてはなりませんが、これは易しいことです。「気だてのいい若者」はつねにそのように行動をし、途中で「気だてのいい若者」らしからぬ事を言ったりしたりしなければ良いのです。

お話を作り始める前の準備にかかる時間と労力が少ないことが、作りやすい理由のひとつでした。

それから、これは私の個人的な理由です。昔話ならリアルさを求めなくてよい、つまり、始めから終わりまで空想のままで済ませることができます。現実のことは考えなくて良いのです。私の精神的負担のほとんどが、このおかげでなくなりました。心が軽くなりました。

お話を作ることに興味はあったものの、読むにも書くにも「リアルな現実世界」から離れることはできないと感じたシナリオや小説は、私を時々苦しい気持ちにさせました。まわりの人たちとうまくやっていけずに疎外感を常に感じていた自分にとって、リアルな現実世界、とりわけ人間関係についての心理描写や人物の性格背景の設定などの作業が、時々辛くなって、自分はどうしてわざわざこんな事をしているんだろうと思う事がありました。人の心理を深く掘り下げる事は、自分を放っておいて欲しいという自分の気持ちに逆行していて、私にはやりこなせないことでした。

とても心引かれる物語がある一方で、私を暗い気持ちにさせる物語もあり、私は前者の物語を求めてお話を作ろうとしたのだけれど、リアルな世界を背景にそれをこなせる力は私にはありませんでした。

私にとって、リアルな背景を持たないお話、昔話のようなお話に触れている時間は、現実を忘れていても良い、愉快な時間だったのです。

一番大事な「筋(すじ)の明快さ」 / 2007.5.3

昔話はとてもわかりやすい筋を持っています。何か解決しなければならないことがあって、それが最後に解決され「めでたしめでたし」で終わるのが、誰でもすぐに思いつく昔話のパターンだと思います。そして、昔話で一番大事なものは、筋書きです。登場人物ではありません。だから筋がわかりやすい事は昔話の必須条件なのです。

聞き手(読み手)が「お話を聞く(読む)」ときに期待するのは、「あー面白かった!」という満足感です。お話の中で示される課題『片付けなければならないこと』が、お話の最後に『きちんと片付く』のを期待しているのであり、その期待がかなえられれば、満足感を得られます。片付き方は色々です。主人公の幸せであったり、悪が滅びて不安から解放される事であったり、小さな出来事が繰り返された後の楽しい結末であったり、あるいはまた悲しい結末であったり。

この『片付けなければならないことがきちんと片付く』ことは、まさに筋そのものです。そして「片付く」ことによる満足感はきっと、おいしいご飯や、うれしいおやつを食べ終わって、最後にお茶をごくんと飲んで、すとんと心が収まるような、そんな感じなのだと思うのです。

語りの単純さ / 2007.5.6

昔話には語り方にも特徴があります。昔話は、『見えている出来事を描写するだけ』です。心理描写や情景描写はほとんどありません。

単純な語りは、作る立場からしてみると当然のように感じます。個人の特定をしていない、性格形成の背景なども決めていないのですから、詳細な心理描写をすることは道理に合わないように思えます。というよりも、必然的にそれはできないことだと思います。情景描写についても、同様の理由が考えられます。

そして、単純な語りは、聞き手を迷わせることがありません。話の始めに「片付けなければならないこと」が示されたのに、もしもその話の途中で語りが本筋からはずれて、訪れた町の様子や登場人物の心の内面が事細かに時間をかけて説明され始めたら? 「この話はどこへ向かうのか」という不安を聞き手が抱くかもしれません。あるいは、話が先へ進まないことで飽きる人が出てくるかもしれません。余計な道草がなければ、聞き手は話の筋に心を集中していられます。

また「見えている出来事を描写するだけ」の「見えている」とは、私の場合はこんなふうです。何か言葉を聞いたとき、たとえば「タンポポの花が咲いていました」と聞こえたとき、私にはその「タンポポの花が咲いている」様子が思い浮かびます。はっきりと具体的にではありませんが、道の両脇の緑と、その中に小さな黄色い花がたくさん咲いている様子がぼんやりと心に浮かびます。この、心に浮かんでいる場面が「見えている出来事」です。本を読みながら、話を聞きながら、唄を聴きながら、言葉を受けてなにかしらの場面が心に浮かぶことは、誰でも経験があると思います。

私がお話を作ろうとするときも、つねに心の中で場面が動いて行きます。言葉に書くときには、その「心の中に見えている出来事」を描写します。しかしこのとき私の心の中には「隅々まではっきりとした具体的で詳細な映像」が流れているわけではありません。必要なものだけが見えていて周りには何もなかったり、あるいは人物の顔を思い浮かべていなかったりします。筋に関係のないことはあまり見えてはいません。これはリアルな設定をしていない事が大きな理由ですが、それらがなくても話の筋には何の影響もありません。

場面を見るのは作り手だけではありません。聞き手(読み手)も言葉を受けて場面を見ているし、語り手も場面を見ながらお話を語ります。具体的な設定など詳細は何もありませんから、その場面は、聞き手や語り手によってさまざまなものになります。でもそれでいいのです。

聞き手が自分のイメージでお話の世界を味わえる、というのも昔話の魅力なのです。

いつも同じ数や色(場面を思い浮かべやすくする工夫) / 2007.5.7

昔話にはいつも同じ数字や同じ色が出てきます。三、七、十二、百、とか、赤、金、銀、とか。あまり「覚えよう」と意識しなくても自然に覚えていられるものが使われています。そうでないと、覚える事に気を取られて、話に集中できません。とくに聞くお話の時は、ページを戻って確かめる事はできないので、聞き手に負担をかけないための工夫は大事だと思います。

(余計な話ですけれど、あの三億円事件がもしも、二億九千六百万円事件とかだったら… 金額は大して変わらないのにその事件が記憶に残る確率は下がるのではないかなあ、と、思いませんか?)

このほかにも、場面を思い浮かべることや、楽しい美しい場面をつくることを助ける工夫が昔話にはたくさんあります。婚約者に贈り物をする場面を示して特別な関係をはっきり印象づけたり、悪役がすぐにそれとわかる姿をしているなど、視覚的に話をわかりやすくする工夫もそのひとつです。それから、リアルなものやイメージしにくい概念のかわりに、印象的なもの、象徴的なものが使われていたりするのもそれではないかと思います。クルミの殻にドレスをしまって大切に持っていたりというような場面は、美しさと不思議さからとても心に残りますし、イメージすることがとても楽しいお話です。また「謎かけ姫に求婚に来る若者が皆失敗して命をなくす、それくらい姫の謎は難しいのだ」ということを印象づけるために、姫の城が求婚者のどくろでできているという象徴的な場面が述べられます。これはけっして面白半分の怪奇趣味ではなく、お話をわかりやすくする工夫なのだと思います。

昔話のそういう事柄に対して、「深層心理学的にこれは~という意味があるのだ」というような解釈がたくさんありますが、この中で、あらゆる細かな事柄までをも意味付けて解釈してしまうようなものには私は無理を感じます。

むしろ、聞き手に印象づけたり、話をわかりやすくするためにそれを用いたという簡単な理由の方がすんなり受け入れられる場合も多いのではないかと思います。昔話は『聞き手のイメージにお話の世界を任せてしまう、委ねてしまう』、そういうお話でもあるような気がします。

美人の容姿を説明しない理由 / 2007.5.8

昔話は詳しい描写をしない、というのが特徴です。それどころか、わりと決まりきった言葉を使います。誰でもわかる簡単な言葉です。これはどんな描写よりも聞き手のイメージを助ける事になるのだと思います。簡単な言葉で述べられれば、それぞれが自由にイメージすることができます。

ここで美人を引き合いに出す事はもう他所でされつくしていますが、結局のところこれが一番わかりやすそうなので、私も美人に助けを借りる事にします。

もしあなたの耳に「昔々あるところに、たいへん美しい王女がいました」という言葉が聞こえたら、どんな王女があなたの心に思い浮かぶでしょうか。あるいは、具体的に姿形が思い浮かぶでしょうか。私の場合ははっきり容姿は見えていません。しかしここで詳しい描写が欲しいとも思いません。『はっきり見えていないことで、王女はより美しく感じられている』からです。では、もし容姿をはっきり思い浮かべた場合。思い浮かべた人全部が同じ姿の美女を心に見ているでしょうか? そんなわけがありません。もしここに美女の美しさが具体的に描写されるとすれば、それは「作家が見ている美女」の容姿であるか、または「語り手が見ている美女」であるか、とにかく誰か一人の心にしかない美女の姿です。それを、聞き手が皆同じように美女だと感じるかどうか?

美しさを描写するのは非常に楽しい作業です。しかし聞き手のイメージにお話を任せているような場合、つまりこの場ではそれは控えるべきだと思います。美しいという言葉の中身は主観的なものですから、それこそまさに聞き手に任せておくべきです。聞き手の見ている場面を、自分の見ている場面と同じように大切に扱わなくてはなりません。

「美しい」に限らず、主観的な言葉に対して作家や語り手のイメージを押しつけるのは、聞き手のイメージを壊してしまう事になりかねないと思います。

イメージさせないようにする事も必要である / 2007.5.11

昔話について一時期流行った「本当は恐ろしい」とか何とか。あれは世の大人たちの想像力がたくましすぎたおかげだと思います。

悪い継母が最後に処刑されたり、謎かけ姫のお城が求婚に失敗した者たちのどくろでできていたりという、ちょっと聞いただけではあらぬ想像をしてしまうような場面が昔話にはありますが、これも他の場面同様に詳細を描写されてはいません。簡単な言葉でそれが述べられているだけです。美人を思い浮かべる際にはっきり具体的な容姿を描かなくても事が足りるように、ここでも聞き手は、はっきり具体的な場面を見る必要はありません。ただ「継母が処刑された」とか「謎かけ姫のお城は失敗者のどくろでできている」という事実が心に留まれば良いのです。悪い者が最後に滅びるのは「片付けなければならないことがきちんと片付く」という意味で必要な事だし、どくろでできたお城は大勢の失敗者たちを「象徴的に表わしている」に過ぎないのだと思います。

でももしここに詳細の描写が始まったら、大変な事になります。残酷に苦しむ場面や、失敗者の無残で生々しい姿を述べたら、そんな恐ろしい場面は強烈に聞き手の印象に残ってしまいます。恐ろしさにショックも受けるでしょうし、動揺もします。きっとお話を聞くどころではなくなってしまいます。

孤立性(どんなことでもお話にできる便利さ) / 2007.5.12

昔話の特徴に「孤立性」といわれるものがあります。登場人物はまわりの環境から孤立している、エピソードのそれぞれはカプセルに入ったように孤立している。ちょっとわかりにくいですね。

登場人物がまわりの環境から孤立しているというのは、現実世界なら一人で勝手に行動できないような身分の人でも一人でどこにでも行ってしまうし、誰とでも接触できる、というようなことです。昔話では『筋が必要とするなら誰が誰と接触する事も可能』なのです。リアルな物語なら理由づけに苦労しそうなところですが、その理由づけが必要ないのです。

エピソードのそれぞれがカプセルに入ったように孤立しているということを、「同じ家に住む三人兄弟がそれぞれ同じ課題を受けに行く」という事柄で見てみます。【…まず一人目がその場所に出かけて行って失敗して帰宅する。次に二人目が出かけて行って、一人目と全く同じように失敗して帰宅する。最後に三人目が出かけて行って、今度は成功する。…】昔話のたいていはこんなふうに話が進みます。このような話を聞くと普通は違和感を感じると思います。「この三人兄弟は同じ家に住んでいるのに話もしなかったのかしら、それとも話を聞いても何も学習できない人なの?」と。リアルな物語だったらありえない不自然な展開です。でも昔話の場合は、一人目のエピソードも、二人目のエピソードも、三人目のエピソードも、それぞれがカプセルに入った孤立したものとして扱われています。これは昔話の『語られるための形』によるもので、心理的な無理は承知の上(マックス・リューティ著「昔話の本質と解釈」福音館書店)なのだそうです。

例をもうひとつ、いばら姫というグリム童話から。【…いばら姫は十五歳のときに仙女の呪いで百年の眠りにつきます。そして百年が過ぎたその瞬間に、訪れた王子の口づけとともに眠りからさめます。王子はいばら姫に求婚し、すぐに二人の結婚式が行われました…】素敵なお話なのでそのまま受け入れてしまいそうです。事実私は大人になるまで疑問に思った事がありませんでした。しかし考えてみれば、いばら姫は百年間眠っていたのですから、目がさめたときには百十五歳のお婆さんになっているはずです。しかも百年間寝たきりだったら筋力が衰えて動けなくなっているのが普通です。しかしそうではありません。『眠っていた百年間はカプセルに入った孤立したエピソード』なのです。やがて迎えるはずの美しいラストに対して、どんな些細なマイナスも及ぼさないのです。これは作る立場として『美しく終わらせるため』にとても便利な事だと思うのです。

素人が即興で考えた面白いエピソードを語り、それを聞き手が受け入れてくれて、そのお話が成立する。こんな事も孤立性を成り立たせている一因じゃないかな、と思います。

ちょうどそのとき / 2007.5.15

昔話では、まさに期限ギリギリの最後の瞬間に何かが起こります。【鳥に変えられていた兄たちが妹のところに飛んでくるのは、妹が火あぶりになろうかというその瞬間】です。

このような話を私はもうハラハラ(イライラ)しながら読みました。「兄たちはもう少し早く、たったの一時間前でもいいから妹のところに来ればいいのに、そうすれば妹が火あぶりになりそうにならなくてすむのに、出来上がっているイラクサで編んだ肌着が一人分足りなかったとしても他の人の魔法は解けるのに。」この気持ちをわかってくれる人、少なくないと思います…

他の話で【自分がお姫さまの本当の結婚相手だと証明しなければならない主人公がそのお姫さまのところにやってくるのは、まさにそのお姫さまと偽の結婚相手との結婚式の日】というのがあります。このときに、一生懸命にお姫さまのもとに向かっていてやっと到着したのがその瞬間だった、のなら普通の展開で普通のハラハラですよ。でもね、何日も前にその町に到着していて、宿屋でのんびりしている主人公がいるんです。その日になってもすぐにお城に行かず、結婚式が始まる瞬間まで待っていて、まさに、ちょうどそのとき! にお姫さまの前に現れるのです。ああもう! 何かあったらどうするの?

…これは「その瞬間」に向かって聞き手の気持ちを盛り上げるのには効果抜群でございます、ハイ。

それから。ちょうどそのときが思わぬ効果(?)をあげる場合があります。前項でも触れた、いばら姫です。【…そして百年が過ぎたその瞬間に、訪れた王子の口づけとともに眠りからさめます。…】いばら姫が眠りから目ざめたのは、ちょうど百年経ったからです(と私は思っています)。でも「ちょうどそのとき」王子がやってきて口づけをしたので、その口づけがいばら姫の眠りをさましたのだという美しい誤解が生まれます。このお話がとても印象深いのはこのエピソードのおかげでもあると思うのです。(ではなぜ他の王子を通さなかったいばらが、自ら道をあけてこの王子を迎え入れたのか? という疑問も出てくるのですが、美しく終わらせるための「エピソードの孤立化」と解釈することにします)

もしもこれが【…百年経っていばら姫はひとりで目をさましました。お城もみんな目をさまし、お城を覆っていたいばらがすうっと消えました。そのとき、この不思議なお城の前をある王子が通りかかりました。王子はお城の中に美しいいばら姫を見つけると、すぐにいばら姫に求婚しました。…】だったら? これでも充分素敵だけれど、もとのお話ほどにドラマチックな感じではなくなっています。

コントラスト / 2007.5.19

ある事柄を印象づけるのに、コントラストという方法があります。またいばら姫で申し訳ないのですが、いばら姫の誕生を祝う宴会の場面です。【…王さまは、お城に金のお皿が十二枚しかなかったので、十三人いる仙女のうちの十二人しか招かなかった。十二人の仙女は次々に素晴らしい贈り物をした。そして十一人目が贈り物をし終わったそのとき、招かれなかった十三人目の仙女が突然現れて、いばら姫に死の呪いをかけた。幸いな事にまだ十二人目が贈り物をしていなかったので、死の呪いを百年の眠りに変えた。…】十二人と一人。十二人という全体の中で、たった一人のはずの十三人目の仙女がとても目立っています。十三人目の招かれなかった仙女の印象は強烈です。いばら姫が呪いをかけられるというエピソードが、十三人目の仙女という人物を使う事でたいへん印象深くなっています。あるいは、呪いをかける人物を印象づけるために「十二人対一人」というコントラストを使ったのかもしれません。

『たくさんの中のひとつを印象づけるコントラスト』は、「国じゅうのつむを焼き払ったはずなのに、ひとつだけ残っていた」や「今までに九十九人の若者が謎を解けずに命を落とし、この若者が百人目の挑戦者だ」など、探せばいくらでも見つかります。『そのひとつがきわだっている』ことは、聞き手のイメージを助けてくれます。

もうひとつ、「まねを失敗する」というコントラストがあります。

【はじめに主人公が良いことをして宝を手にいれ、それを見た隣の欲張り爺さんがまねをしようとするがうまくいかずにひどい目にあう】というお話は日本にたくさんあります。

グリム童話には【姉妹のうち一人が真面目で働き者であるために素晴らしい報酬が与えられ、もう一人の怠け者にはとんでもない報酬が与えられる】というお話があります。

いずれも二人目のエピソードは一人目の主人公を引き立たせるためのものであることがわかります。一人目のお話だけで聞き手はすっかり主人公の気持ちになっているので、二人目のエピソードを聞き手は緊張する事なく聞く事ができ、しかも少々優越感を持っていい気分で聞いていられるのです。

役割 / 2007.5.25

昔話の登場人物にはリアルな背景がないので、誰が誰と接触することも可能です。極端な事を言えば、ある昔話の登場人物をそっくり別の人物に入れ変えても話が成り立つかもしれません。

しかし、昔話の登場人物にはその立場に対して、はっきりと役目が与えられています。

主人公の役目は『筋を進めるための行動をとること』です。

具体的には『目的に向かって出発する、贈り物を必ず手に入れる、目的に到着する』です。

主人公の役目で必要不可欠な二つは、『目的に向かって出発する』と『目的に到着する』です。前者は多くの場合「旅に出る」「継母にいじめられる」など「片付けなければならないこと」が見つかった状態です。後者は「結婚する」「国王になる」など、「片付いた」状態です。

『贈り物を必ず手に入れる』は筋によって現れます。【主人公が目的を果たすためにはある道具が必要になる、その道具はこれから出会う不思議な人物が持っている。その人物は主人公に謎をかけるが、うまく謎に答えられなければその道具は主人公の手に渡る事はない。】このようなエピソードでは、主人公が謎に答えられなければ筋は進みません。筋を進めるためにはこの人物の謎にうまく答えて、道具を手に入れることが必要なのです。そしてそれは主人公の役目です。

敵の役目は『主人公の邪魔をすること、必ず滅びること』 です。

昔話の中の敵は『悪という概念が人(動物)の姿をしている』ものです。複雑な心を持った人間ではありません。これは昔話の聞き手に子どもが多いことが理由の一つだと思います。

人間は心の中の悪い面をコントロールしながら生きているものなのだという事を、小さな子どもが理解できるでしょうか?「良い者」と「悪い者」という理解ならできるけれど、一人の人物の中に良い者と悪い者が共存しているという抽象的な概念は理解しにくいのではないかと思います。昔話の主人公は「良い者」の象徴であり、敵は「悪い者」の象徴なのです。この二人はけっして和解することはありません。

子どもはやがて自分の中に「良い者」と「悪い者」の両方があることを発見し、ショックを受けながらもそれを認めるでしょう。それまではお話の中の「悪い者」は最後まで「悪い者」のまま、お話の中できちんと片付けられなくてはならないと思うのです。ただそのとき私が気をつけたいのは、とくに敵が人間に近い姿の時には、できるだけ『悪者は自滅させる』ようにしたいということです。【敵が主人公を殺そうとした罠に敵自身が落ちて死んでしまう】というように。わけのわからない化け物なら「悪という概念そのもの」として解釈しやすいので、悪い敵だからやっつけるということもきちんと成り立つと思います。しかしそれが「人間」を感じさせるような敵だとして、もしもそこに自分を重ねてしまう聞き手がいたら、その聞き手は、「存在しているというだけで攻撃される」ことになってしまいます。考え過ぎかもしれませんが… だから、「自分が悪いことをしようとしたから、その自分の仕掛けたことによって自分が罰を受ける」という、自滅という滅び方が理解しやすいのではないかと私は思うのです。

悪い人が最後に改心するような事を書きたいのならば、昔話ではなくもっと別のもの、その心理描写が可能な小説やシナリオやあるいは創作童話で書くべきだと思います。

繰り返し / 2007.5.29

昔話というと「三回繰り返し」を連想する方は多いと思います。これは孤立化のところでも少し触れましたが、「語られるための形」なのだそうです。

文面で読んでいると無駄に思えるような繰り返しは、音で聞く形になるととても重要な役割を持ちます。まず、繰り返しによってお話にリズムが生まれます。『三回繰り返しは三回目がうまくいくものと決まっています』が、三拍目が強調されるこのリズムは人間が自然に乗れるリズムだそうで、音楽にも「バーフォーム」という技法として存在しているそうです。(小澤俊夫著「働くお父さんのための昔話入門」日本経済新聞社)

それから、じっと語りに集中していた聞き手の緊張を、繰り返しによってゆるめる効果も考えられます。まったく新しい情報を聞く時は集中して聞いていても、繰り返しだなとわかったところではその緊張は少しゆるみ、ほっと一息入れるような感じで聞く事ができます。同時に、ほとんど同じ言葉で繰り返されるその二度目は一度目とどこが違うのか、三度目は前の二回とどのように違うのか、期待したり予測したりする余裕や楽しみも生まれます。読むだけの物語なら不必要かもしれませんが、語って聞かせる事も考えているお話ならば、こうした繰り返しを適宜入れてあげるのも必要だと思います。

すでに存在する昔話の、繰り返しの部分を端折ってしまうのは「語られるための形」を崩してしまう事になります。不注意に形を変えてしまうのは控えるべきです。

三回目が強調される「三回繰り返し」は、お話を作る場合も面白い演出として使えると思います。何かエピソードを思いついて、それをお話の中で重要なものにしたいと思ったら、そのエピソードを三回目に組み込んだ「三回繰り返し」を作るのです。これは繰り返しだ、とわかると聞き手は自然に三回目に心を集中します。三回目がうまくいく事はほとんど誰でもが知っています。だから、聞き手の気持ちは三回目に向かってどんどん盛り上がって行きます。印象づける効果は抜群です。うまくいくというのは、筋が進むということです。見かけ上でそれが間違いであっても、その行動によって主人公が進むことができれば「うまくいった」と言えます。

また、別の繰り返しの形もあります。言葉で言われた事がのちに出来事として繰り返されたり、出来事が言葉で繰り返されたりという、やはりこれも文面で見るとうるさいような感じの事柄です。しかしこれも語られるための形として大事な事です。話を聞くというのは、戻って確かめられないということですから、「大事なことは忘れないように繰り返してあげる」必要が出てくるのです。

スイッチ / 2007.5.30

主人公の役目「筋を進めるための行動」を仮に『スイッチ』と呼んでみると、さらにその意味がわかりやすくなります。電灯のスイッチのスイッチです。(これをスイッチと呼ぶのはどこかで読んだ事のように思うのだけれど、思い出せない、すみません)

スイッチというのは、押し方はどうでも、それを押せば電灯がつきます。とにかく押せば良いのです。主人公だからカッコよくスイッチを押さなくてはいけないなどということはありません。失敗の末にようやく押しても、うっかり間違えて押してしまっても、それがスイッチだと知らずに押してしまっても良いのです。主人公だけに限らず、登場人物の誰もがそれぞれのスイッチをどんなふうにでも押すことができます。このへんに私はとくに面白さを感じています。

「登場人物にはリアルな背景はない、心理描写もしない」という事だけを聞くと、つまらない人物たちのお話しかできないように思えてしまいます。しかし実際にはそうではありません。登場人物たちはその個性によって様々な行動をします。心理描写はできなくても「見えていることを描写する」事はできますから、その見えている様々を描写すれば良いのです。

たとえば【道で出会ったお爺さんに食べ物をくれと頼まれて、一人目と二人目はそれに応じないけれど主人公である三人目は自分のお弁当を分けてあげる】というエピソード。この主人公は親切な人物なので、聞き手はお爺さんがどんな良い贈り物をするのかと期待を抱きます。

しかし、もしこのエピソードを【一人目と二人目はお弁当を分けてあげるけれど、主人公である三人目はそうしない】というふうに変えた場合、このけちんぼな主人公の運命はどうなるでしょう。彼が主人公であるからには、どうあってもこの行動から贈り物を受け取らなくてはなりません。聞き手は「いったいどのように?」と思います。

たとえば【お爺さんが怒って主人公を崖下に突き飛ばすのだが、その崖下にまさに魔法の道具がある】

あるいは【お爺さんはお弁当を分けてもらえなかったのでついに泣き出してしまい、そのときにお爺さんの口から落ちた金の入れ歯を見るとそこに必要な文字が書いてある】。あまりきれいな場面ではありませんが(失礼いたしました)、こんなふうに色々想像して遊んでみると登場人物たちの個性が出る場面が作れます。そして、「最後には本当にめでたしめでたしになるの?」という新たな筋への期待も生まれ、お話の展開にも面白さが出てくると思います。

心理描写をしない理由 / 2010.2.14

昔話が心理描写をしない理由。

以前「リアルにしなくてもよい」に書いたことの他に、もうちょっと自分なりに納得がいくかなという理由が見つかりました。

感じ方は人それぞれ違うもので、普遍性に欠けるものであるから。

・・・ではないかなと。

「こういう事が起こりました」という事実。けれど「起こった事」に対してどういうふうに感じるかというのは色々で、それは聞き手の感じ方にまかせるしかない。

「王女は大変美しく、その姿を見た人は皆目がくらんで倒れてしまうほどでした」という事実、でもその容姿がどんななのかは聞き手のイメージにまかせる。

それと同じかなと。

聞き手にとって自分の感じ方と主人公の行動が一致しなくなる場合もありえるけれど、それはそれで。お話を楽しむのに支障はなかろう。と、思います。

物事をどう感じるかというのは、皆同じではない、違うものだし、正しい答えというものもない。

2012.05.31

  背景画像:フリー素材 * ヒバナ