どこまでも、まよいみち

文献を自分なりに解釈してみた

昔話研究の場で基礎的文献として広く読まれている「ヨーロッパの昔話―その形式と本質 マックス・リュテイ著 」を、懸命に理解しようとしたのだけれど、たぶん自己流解釈になっているんじゃないかな…ということでこんなタイトル。

ヨーロッパの昔話―その形式と本質 マックス・リュテイ著 」を自分なりに解釈してみた

既出ページで紹介させて頂いている6冊の書籍の中の1冊ヨーロッパの昔話―その形式と本質を読んだ、その内容のノート(要約ではありません。私がウンウン唸りながらまとめたノートです。正確性の保証はいたしません。)と、最後に「たぶん昔話ってこんなふうなんだろうな」と思った自分の解釈を書いてます。

ノートに入る前にまず昔話について「大前提だと思うこと」を書いています。こんな解釈にいたった理由のひとつに、おなじく 既出ページで紹介させて頂いている「たのしいお話 お話を子どもに  松岡 享子:日本エディタースクール出版部 (1994/07) 」の内容があります。著者の松岡享子氏は、実際に子どもたちにお話を語っておられるので、聞き手の子どもたちの反応なども著書で読むことができます。

このページの中でとくに明記していない引用部分は「ヨーロッパの昔話―その形式と本質 (民俗民芸双書)  マックス・リュテイ (著), 小澤 俊夫 (翻訳) :岩崎美術社 (1995) 」からです。

文献を読んで:一次元性

現実世界の私たちの目の前に、とつぜん異界のものがあらわれたらどうしますか?たとえば幽霊とか、妖怪とか、怪物とか。

ほぼ間違いなくうろたえたり怖がったり興奮したりしますね。平常心でいることはたぶんありえないと思います。もしかしたら怖くて気絶するかもしれない。

昔話にも異界のものはたくさん出てくるけれど、昔話の登場者たちは彼らと普通に接触します。まるで自分たちと同じ次元のものと対面しているかのように、何の動揺もなく。異界のものはたいてい援助者あるいは迫害者としてすじの上に突然あらわれて、必要な機能をはたして消えていきます。昔話の人物たちが彼らに不安をいだくとすれば、それは人間の強盗や殺人者にいだくのと同じ感情なのです。

また、現実世界で動物が口をきいたり、星や風が話をしたりすれば、私たちは吃驚仰天してしまいます。だけど昔話のなかでそれがおこっても、昔話の人物たちは驚きもこわがりもしないのです。

昔話の人物たちは、異常なものに対する感情をもちあわせていないのである。(p13)

昔話のなかには異次元がないということではない。昔話の人物たちは異界のもののなかに 別の次元を感じることがない。マックス・リュティ氏はこの意味で昔話の一次元性ということをおっしゃっています。

文献を読んで:平面性

昔話に登場する物や人物たちは、奥行きのない、実体性のない、内面も周囲も時間ももたない、図形である。

昔話のなかにでてくる道具は、硬いままで変化しない。が、とつぜん別のものに変化することがある。ゆっくりと成長するように大きくなるのとはあきらかに違う。そして、日常生活に普通に使われるものではない。まったく特殊な場面にだけ登場して役目をはたす。他のときには無いも同然に忘れられている。

昔話の登場者は、 紙で作った図形のようだ。傷害を受けても肉体的・精神的苦痛は表明されない。その先のすじに必要なときだけそれが語られる。もし感情や性質を語る場合も、行動(事実)によって、すじの上に見えるようにして表す。

昔話の登場者は、 周囲の世界をもっていない。故郷にふかくむすびつけられてはいないし、肉親関係(両親・子ども・妻や夫など)も、すじに必要なくなればそれっきり語られない。結婚は主人公がそれを待ち望んだ目的なのではなく、すじ(楽しい冒険物語)の、たんなる終点なのだ。

彼らには 永続的関係もない。脇役たちはすじに必要なくなれば、視界から消える(語られない)。援助者はそのときだけ突然どこかからあらわれて、用事がすむと消える。

「困った時は助けるよ」という関係は、贈り物という形であらわされる。主人公とお姫さまを結びつけるのは感情ではなく目印である。いろいろな関係は内面的な結びつきとしてではなく、外的なアイテムとなって人物間に生じる。だからこれらの道具は、日常的な生活道具とは性質が異なるのだ。ものは人間関係の記号なのだ。

彼らは 時間ももっていない。しだいに歳をとっていく人間は昔話には存在しない。若者は若いまま、老人は老いたままである。昔話の登場者は苦しい時代(閉じ込められていたり、口をきくことを禁じられたり)の痕跡もあらわれない。体のある部分が失われても、ある時点で突然はえてくる。あるいはその後の物語ではまったく触れられない(効力のなくなったモチーフ)。昔話ではあらゆる形態変化は機械的に突如としておこる。

肉体や物体は図形、性質は話のすじ、関係は贈り物。いくつかの行動の可能性はいくつかの図形的登場者にふりわけられ、精神的・霊魂的疎遠は地理的遠隔としてあらわされる。空間性をなくし、図形として示す。

文献を読んで:抽象的様式

一貫した平面性は、抽象的様式をつくりだす。それは現実から離反した性質をもつ。

するどく、かつ明確。

登場者たちはするどい輪郭をもつ図形である。昔話は描写をせず、ただそれを名指す。くわしい描写をすることなく、すじの上で大切なものだけを述べる。

物があげられる場合、それは個体で、するどい輪郭をもっているものが多い。だんだんぼやけていく奥行きのある洞窟やしげみなどではなく、町や城や家である。

人物もまさに図形的に述べられる。処刑される者の体は「まふたつにひきさかれる」のであって、明確な輪郭や固定した形はそこなわれず、血が流れ出るというような生身の立体を感じさせる描写はない。

昔話は事物や生物を金属化・鉱物化する傾向がある。しかも、高貴でまれな金属類をこのむ。昔話は透んだ超原色をこのむ。金・銀・赤・白・黒・紺青。

物語のすじの線もするどくかつ明確である。一本の昔話のすじの線は遠方へ広がって行き、主人公を、長い道のりを越えさせて遠い国へ連れて行く。

ためらいや動揺、あるいは中途半端で、話のすじの線のするどさやすじの前進がさまたげられることはない。ある反応があたっていても誤っていても、とにかくその反応から決然として出発していくことになるし、あるいは逆に、決然として回避したり退却したりすることにもなる。精神的なものはすべて外部におきかえられ、話のすじあるいは物となり、それによってするどく印象的な、可視的なものとなる。どっちつかずなものやことばの背後にかくされたものなどはひとつもない。(p52)

昔話は「ぴたり」である。

主人公はまったく特定な課題を与えられるのだが、この不可能をやりとげる。なぜならば、主人公はその課題を解決する力のある物をもった援助者に「ぴたりと」でくわし、その援助をうけるために必要な反応をする。すると援助者は、主人公が直面している(あるいはするであろう)課題に「ちょうどぴたりと」ききめのある贈り物をくれるからだ。

贈り物はそのまったく特定な課題を克服するためだけのものであり、その課題が解決されれば、このものは二度と話題にされることはない。贈り物は普段の生活や仕事に役立つものではなく、話のすじが特定の場面で要求したときのみ、「ぴたりと」力を発揮する。

脇役はその瞬間を必ず逃す。主人公はその瞬間に「ぴたりと」事を決める。ある決定的なふたつのできごとが「ぴたりと」同じ時間に同じ場所でおこる。たいていの期限はぎりぎりいっぱいまで使われる。

主人公のために用意されたわけではないはずのものが「あつらえたようにぴたりと合う」。虐げられている死者を買いとるために必要な金額を主人公は「ちょうどぴったり」持っている。国王が亡くなり、次の国王をこの都の門に最初にあらわれた者にしようと決めた「ちょうどそのとき」に、主人公が都の門にあらわれる。

抽象的様式構成、すなわち各状況がたがいに正確に一致することは、なにかの外的な魔術と同様に魔法的である。いやじつのところ、そうした魔術よりもはるかに現実ばなれしている。(p58)

昔話の固定した公式。

数字は1、2、3、7、12。とくに3が支配的である。7、12、100は様式上の公式(複数、ということの具体化)である。

昔話が求めているのは抽象的確定性である。そのことは、昔話がある文章全体や長い一連の文章を一語たがわずくりかえすのをみても感じられる。同じことがおきたら、同じことばでくりかえすのが重要なのである。~中略~ 頑固な、厳格なくりかえしがあらわれると、それはやはり抽象的様式の一要素である。(p60)

昔話の発端・結末の文章も公式的である。形式を固定させることに役立っている。

昔話のすじは、明瞭な一本の線である。多くのエピソードが前後につながって、ただ一本の線になっている。この単線性と多岐性とが、抽象的様式の基礎と前提をつくっている。

抽象的様式の頂点は「奇跡」である。

昔話は極端なものや極端な対照をこのむ。美しく善良か醜く悪人、貧しいか金持ち、王子か百姓、白癬頭か金髪、残酷な罰と最高の報賞、等々。極端なもの(抽象的様式)の究極の頂点は奇跡である。一晩で子どもが生まれたり、魔法の膏油で死者がよみがえったり、病人が分解されて組み立てなおされると治ったり、突然変身したり。

昔話は、非常に厳格な法則によってつくられている。(!)

昔話の抽象的様式構成は昔話に清澄さと正確性とをあたえる。この抽象的様式構成は貧困でも無能力でもなくて、高い形成力なのである。それはおどろくべき一貫性をもって昔話のすべての要素をつらぬいており、それらの要素に、しっかりした輪郭と洗練された軽快さをあたえている。(p65)

文献を読んで:孤立性と普遍的結合の可能性。昔話は「孤立化」で満たされている

この章には、抽象的な昔話の様式のもっとも重要な標識は孤立化である。(p67)と書いてあります。孤立化の意味も、抽象的様式の隅々までの納得も、私には難しかったのですが…がんばって孤立化のほうをなんとか理解できると抽象的のほうも(奇跡は普遍的結合の結果だというふうに)納得できる気がします。

前章までのこと

平面的記述(一次元性含む)は孤立させる記述であり、抽象的様式は孤立性に支配されている。詳細はここでは割愛します。

エピソードは殻にとじこもっている???

昔話のすじの記述のしかたは、ただ動作を述べるだけで、そのすじのまわりの空間を感じさせない。そしてこの一本の話のすじの線は、各部分(エピソード)にわかれる。そして、

各エピソードは殻にとじこもっている。各要素はたがいに関連を持つ必要がない。(p69)

各要素はたがいに関連を持つ必要がない。これは昔話のもっとも気になる、もっとも抵抗を感じる性質ですね。(かならず関連を持たないのではなく「持つ必要がない」のです)

とじこもり例1・以前のできごとは持続的影響力をもっていない。

~略~ 昔話の図形的登場人物は、以前の援助者、あるいは以前に受け取った魔法の贈物、あるいはもう使ってしまった魔法の贈物などを、必然的に思い出さなければならないわけではないのである。なぜならば、主人公や援助者、魔法の品物などはすべて孤立しているのであって、いつでもたがいに結びつくことができるが、しかし結びつかなければならないわけではない。(p72)

「いつでもたがいに結びつくことができるが、しかし結びつかなければならないわけではない。」だから、一度使った(つまり昔話にとっては役目を終えた)魔法の品物が別のエピソードでは使われない理由を説明してつじつまを合わせようとする必要はない。

とじこもり例2・人物は他のエピソードの自分自身に無関係。

ひとつのエピソードの中の重要な目的だけに照明が当てられる。他の事(別のエピソードのなかで同じ人物がしたことや獲得したこと)は照明が当たらない闇の中にある。

それらは照明の光の中にひきこまれることもありうるけれども、ひきこまれなければならないわけではない。(p78~79)

王女が自分の秘密を言い当てた者とでなければ結婚しないと公言したにもかかわらず、別のエピソードでその秘密をあっさりと教えてしまう。

同一人物の行為や運命はばらばらに分離され、各エピソードはそのうちのひとつを知っていればオッケーらしい。 これは、各要素はたがいに関連を持つ必要がない、つまり持たなかったことに付随する結果として起こったことだよね。「あれとこれは関連がないからいいや、でもあとでまとめてみたらなんか納得いかない」みたいなさ。

とじこもり例3・体のある部分が失われた場合とか。

少し話が進めばもうそのことは忘れ去られて、普通に動き回っていたりする。

とじこもり例4・悪事がばれて捕まった悪者への訊問。

他の物語では不可能だが、昔話だけが、事件の通りの訊問をすることができる。質問される登場者は、以前のエピソードとこの質問をそれぞれ孤立的にとらえている。関連付けて考えていない。

繰り返し

昔話の繰り返しについて。口承のものは繰り返しをこのむ。繰り返しは語り手にも聞き手にもよりどころとなる。

でも、「同じようなエピソードを遂語的に繰り返す」のは孤立傾向と矛盾するのでは。

もしも各エピソードがほんとうに孤立していて、ほかのエピソードと関連がないならば、はじめのエピソードの文章があとのエピソードで遂語的にくりかえされるのはどうして可能なのであろうか。(p91~92)

エピソードは木の葉っぱと同じ。ひとつの物語には、ただひとつの形式意志(幹)があり、繰り返し同一の図形(葉っぱ)を作る。その図形(葉っぱ)はたがいに等しく、しかもたがいに従属的ではない。一枚の葉っぱが存在するために、他の葉っぱを参照しなければならない…なんていうことはない。一枚の葉っぱはそれ一枚で独立して存在する。目や耳にとってはその各エピソードはそれぞれ葉っぱのように独立性を保っている。だからこそ、ほとんど同じ内容のことを繰り返したり、同一の言葉で報告したりできるのだ。

別のエピソードを参照しなければならないような短縮やバリエーションは独立性に反する。しかしたとえ類似のものであっても、とにかく、葉っぱを一枚出すように、完全に形を整えたエピソードをもう一度繰り返すことが大事。「すべては一度めと同じようにおこなわれました」は良くない。

目に見える「孤立性」、目に見えない「普遍的結合の可能性」。

昔話のあらゆる抽象的様式は、孤立性と普遍的結合の可能性の法則のもとにある。その抽象的様式は、個々の要素を純粋かつ明瞭につくり、非写実的明確さで区別し、昔話にでてくる物や人物の肉体にも動作にも固さとするどい輪郭の線をあたえる。要するにこの抽象的様式は写実的物語では考えられない孤立化を実現している。この孤立化があってはじめて、あらゆる図形的登場人物や冒険の、あの優雅なアンサンブルがなんの苦もなく実現されるのである。(p94)

写実的物語では考えられない孤立化を実現している。

外的に完全に孤立したできごとが時を同じくしておきるのは偶然ではなくて精密さである。われわれはこれに魅了される。ぴったり一致するというのはとてもドラマチックでドキドキする。(現実的な物語だったら「できすぎ~(+_+)」だけどね)

孤立性と普遍的結合の可能性の具体化1・贈り物

昔話の人物は内面世界をもっていないから、自分で決心をすることはできない。昔話は外的原動力で彼を前進させる。課題と危険は彼に決定的な可能性を与え、贈り物や忠言などが彼を助けてことをすすめる。

贈り物は主人公しか使うことができない。主人公は援助をえるための正しい援助者に出会い、正しいキーを押す。主人公は恵みを受けるのである。

あたかも主人公は、世界と運命を形成している秘められた力やメカニズムと、目に見えない接触をたもっているかのようである。(p103)

主人公は、世界と運命を形成している秘められた力やメカニズムと、目に見えない接触をたもっているかのよう

主人公はその普遍的接触能力により、贈り物を受け取ることができる。
「主人公は贈り物を受け取ることができ、また受け取らなければならない。」

彼は恩寵を受けていて、高次な能力のあるもの、あるいは、高次な計画につかえる能力のあるものにになわれて、前進させられる。(p105)

すなわち主人公は、力をかしてもらえるような関係を自分のほうから結ぶことはできず、贈物としてあたえられるのを期待して待つばかりである。(p105)

孤立性と普遍的結合の可能性の具体化2・奇跡

主人公は奇跡も贈り物としてもらう。自分が魔法使いなのではなく、魔法の道具をもらう。主人公はそれを求めるわけではないが、必要な時には必ずあたえられる。

主人公はかならず、ちょうどそのとき必要としているものをもらうということ自体、すでに十分に奇跡である。贈り物と課題、贈り物と危機が正確に対応していること、あらゆる状況がぴたりとあうこと、それは昔話の抽象的様式に属する。奇跡とは、その様式の究極の、もっとも完全な表現である。(p106)

昔話はあらゆるものを孤立したものとして、そして普遍的に結合能力のあるものとして考える。奇跡はその両者を、とくにするどく、明確に表現しているにすぎない。(p107)

孤立性と普遍的結合の可能性の具体化3・使われなくなったモティーフ

無効力のモティーフ(ひとつ、あるいはいくつかの本来的な方向に向かって引っかかりをなくしてしまっているモティーフ)。

不完全な伝承から生じたわけではなく、それは純粋に「昔話ふう」なのだ。

昔話のすじのなかのあらゆる要素は、するどく決定されている。しかしそれらの要素に通じている糸は、すべて見えないままである。そしてそのかぎりにおいて、昔話の全要素の根本的無効力性ということをとなえることができる。(p110)

なぜ主人公は呪文を知っていたのか。なぜ主人公はその贈り物を欲しがるのか。なぜ花嫁の父親は娘にマッチを持たせてやることを思いついたのか。昔話はそれらについて何も説明しない。正体のわからない色々な影響が、説明のないまま話のすじにわりこんでくる。これらは昔話の世界に存在する「普遍的結合の可能性」を感じさせる。

盲目的なモティーフ。

課題を全然持っていない兄弟、利用されない贈り物、何の役割もない見知らぬ人物。口承の欠陥から生じたであろうこれらは、取り外されるなり、新しい意味を与えられるなりしてもいいはずだが、昔話はそうしない。昔話にとっては、意味のなくなった要素も「かくれた秩序を暗示」するという意味がある。

孤立性と普遍的結合の可能性のもっとも重要なにない手は主人公である。

孤立性と普遍的結合の可能性のもっとも重要なにない手は主人公である。~中略~ 主人公にとってのみ、この潜在的結合能力は、かならず実際の結合した関係として実現される。(p116)

主人公以外のものは、可能性をうしなったり、のがしたり、気づかなかったりする。

それと意図せずに、目の前の状況に対応することによって、思いがけず目的への道が見つかる。自分の道の事しか考えないことで意図せず他人を救う。他人の事しか考えないことで意図せず自分の目標に到達する。

昔話は、目的を意識して慎重におこなわれたくわだてを、このんで破滅させてしまう。すなわち、ウリヤの手紙は途中で盗賊たちによって逆の意味に書きかえられてしまう。ところがなんの援助手段もなく、なんの準備も、なんの特別な能力もなしに、解きがたい課題を解くために出かけていく貧しい百姓息子には援助があたえられ、いろいろな力が目標へみちびいてくれる。~中略~ 彼らは孤立者として「図形のかたちで」生きている。自分の真の居所を認識せずに、彼らは「現実の関係から」行動する。(p118~119)

自分の真の居所を認識せずに、彼らは「現実の関係から」行動する。しかしそれでも主人公は間違いなく目的に到着することができる。…人は誰でもそうなのだ、生きることを信頼していてよいのだ、と感じさせてくれる物語が昔話なのかな。

文献を読んで:純化と含世界性

どんな要素でもオッケー。

昔話はあらゆるモチーフに「昔話にふさわしい姿」を与えることができる。昔話はどんな要素でも歓迎する。

昔話はモチーフを伝説や神話からとることもあるし、現実的な物語から、あるいは現実からとることもある。世俗的なものも奇跡的なものも、あらゆるものが昔話モチーフになりえるのである。そして昔話は、それらすべての中身を抜き、純化し、孤立化する。

忠告のできる老人との出会い、すなわち本来は奇跡的な要素をなにももっていないモティーフが、昔話の中では様式化されて、(忠告者は、主人公を前進させることのできるものをぴたりと知っている)伝説のなかの、みにくくゆがめられた死者との出会いなどのような、はるかに幻想的なモティーフよりも、よりいっそう「奇跡的」であり、「おとぎばなし的」にはたらいている。(p135)

奇跡は昔話様式の頂点であるから、昔話のなかに入ってくるモチーフはすべて奇跡モチーフになりえる。

ぜんぶ非現実化。

あらゆるモチーフは非現実化されている。超越的・神話的・魔法的・性的・あるいは日常の社会生活の世俗的モチーフ、すべてにおいて。

  • 昔話の人物たちは、本当に純粋な図形である。昔話のなかのパン屋や兵隊やお坊さんは、現実世界のパン屋や兵隊やお坊さんではない。つまり、パン屋や兵隊やお坊さんという職業をさしているわけではなく、たんに「何か図形が必要だから」それらのことが言われただけである。この図形は簡単に別の図形と取り替えることができる。ある物語でパン屋がはたしていた役目を、別の物語で兵隊やお坊さんがはたすことができるのだ。
  • 物も同じく。物はその本来の機能を持たなくてよい。現実の性質とは関係のないようなはたらきを発揮してよい。
  • 超越的・世俗的体験内容も消滅している。現実世界で、社会生活を営む上で重要な要素である「忠告」や「相談」は、たんに話のすじの機械的推進力となるだけである。それは現実世界でのように生きた関係から生じるのではなく、話のすじの上で即座に機能する。

忠告は聞き手にとっては決まった公式である。また、際限なく高められてゆく求婚の条件も、聞き手は明確な物語のすじとして安心して受け取る。(現実世界でこんなことがあったら、たとえTVか何かで見ているだけの私でもげんこつ握りしめることだろう…)

昔話のあらゆるモチーフは、このように中身を抜かれている(純化)。それにより、形式の固定性、清澄さが得られる。

すべての要素は純粋になり、軽く、半透明になって、容易にくみあわさってひとつのアンサンブルをつくりだすのである。(p133)

ガラス玉に映っている世界。

昔話のなかの諸要素は、現実世界でのその領域を代表している。しかしそれらの諸要素は、自分が生長してきた世界のもろもろをすっかり抜き取られた、明確でそして重みのない像である。気質・道徳律・愛・憎しみ・困惑・震撼・意志の緊張・精神的状況、すべてが気化され、非現実化されている。

昔話の図形的登場人物はいかなる特定の環境にも義務として結びつけられていないし、個性的発展をとげた内面生活とも結びついていない。それだからこそ図形的登場人物はどんなものとでも任意に結びつくことができ、どんな賭けにでもふみこむことができる。単一様式化の作用は世俗的なものと超越的なもの、すなわち此岸者と彼岸者、身分の高いものと低いもの、すなわち王女と百姓息子、慣れたものと見しらぬもの、すなわち肉親の兄弟とまったく面識のない人物、そういったものをたがいに同一の形で、またすこしの断絶もなく対置させる。このようにして昔話のなかにある純化的孤立作用は「自由な」アンサンブルの可能性をつくりだす。この純化的孤立作用はまた同時に、昔話が世界全般を包括的に自己のなかに包含できるための前提でもある。他のいかなる方法をもってしても昔話という叙事詩的短形式は、含世界性とはなりえないであろう。リアリスティックな個性的叙述は普遍性を断念させてしまうにちがいない。昔話がどんなに慎重にこの必然性を、自己の二重の意味での長所としているかをみれば、昔話のなかにいかに高度な芸術形式がひそんでいるかがよく理解できる。すなわち中身のなくなったモティーフは半透明で軽いものとなる。そうなると純粋で、明確で、輝くようなモティーフとなるばかりでなく、簡単に、なにかと結びつくことができるようになる。そのばあいそれらのモティーフは、純化作用によって純化されてしまっていはいるけれども、やはり現実的な存在の多様な可能性を代表している。そのモティーフは、それ自身としてはもはや現実そのものではない。しかし現実を代表している。昔話というガラス玉のなかに世界がうつっているのである。(p143~144)

だいぶ長く引用してしまいましたが要するに、「単一様式化(孤立化)によって現実世界では断絶のあるものも断絶なく対置させることができる(普遍的結合)。純化的孤立作用は世界全般を包含できるための前提である。昔話のなかのモチーフは現実そのものではないがそれらを代表している。それはまるで世界がガラス玉にうつっているかのようである。」ということ…だと思います。

文献を読んで:昔話の機能と意義

私は「語り・聞く話」だからゆえに、あの様式の大部分ができたのだろうと考えたけれど…

マックス・リュティ氏は「そういう様式であったから、語り・聞かれる場において生きることができたのだ(外側の理由)」と。昔話があのような様式である理由は「聞き手の内的欲求、人間の要望を満足させるためにあのような様式が必要だったのだ(内側の理由)」。 もともとあの様式を持っているものが、様式に適合する場所をみつけた、ということらしい。

植物が種類によってそれぞれ独特の姿をしているのは内側からくる理由であり、まわりの環境のみがその植物の姿を決める理由ではない。そしてその場所の環境が自分が育つのに適する場合のみ、生命はそこで繁栄する。

では、聞き手の要望とは? 昔話が満足させる人間の要望とは? あの様式は聞き手に何をもたらすのか?

昔話は、語られた内容の外面的リアリティーを信じることを要求しない、むしろ禁じる。その抽象的様式が、昔話と、(現実世界の)外面的リアリティーは根本的に区別されていることを感じさせる。また、昔話は我々に意識的に世界を解釈させるようなこともしない。昔話は、ただ叙述するのである。

孤立的な図形的様式は、ある種の非常に独特な作用を生みだす。すなわちそこにはたらいている諸関係についてはまったく無知であるにもかかわらず、偉大な確実さが支配している。全体への鳥瞰がないのに、本質的ないろいろな力との接触はそこなわれていない。まるで昔話はわれわれにつぎのことを保証しようとしているかのように思われる。すなわち、おまえ自身は自分がどこからきて、どこへいくのか知らなくても、あるいはどのような力が、どのようにおまえにおおいかぶさってくるか知らなくても、あるいはどのような関係のなかに自分がうめられているのか知らなくても――おまえは自分が深い意味のある関係のなかに立っていることを確信していてよろしいと。(p166~167)

おまえ自身は自分がどこからきて、どこへいくのか知らなくても、あるいはどのような力が、どのようにおまえにおおいかぶさってくるか知らなくても、あるいはどのような関係のなかに自分がうめられているのか知らなくても――おまえは自分が深い意味のある関係のなかに立っていることを確信していてよろしい

抽象的図形は、それ自体に個体的内容がつめこまれていないので、非常に多種多様な意味のにない手となることができる。昔話の重量のない図形的登場人物はつぎのような特徴をもっている。すなわちそれはいかなる限定された解釈にもしたがう義務をおっていず、むしろそういう限定的解釈を禁じており、しかも他方では多様な解釈を許し、むしろそれを求めてさえいるという特徴をもっているのである。それらの図形的登場人物は聞き手の心のなかに一度にことなった音を、かすかにではあるが明瞭にひびかせる。聞き手は意識しないことではあるが、それらの図形的人物は聞き手にとって、同時におこった多種多様な目に見えない現象のきれいに整えられた姿なのである。(p171~172)

昔話は私たちに、漠然とした不安を感じながら生きている私たちに、そのままで何も不安に思うことはないのだという体験をさせてくれるのではないか。偉大な確実さや本質的な力との接触を感じさせてくれ、生きていることへの信頼感を感じさせてくれるのではないか。(私は昔話に不思議な安心感をおぼえるのです。現実逃避傾向のせいだと思うんですが、もしかしたらこういうことも感じているのかも。)

物語すべてにおいて、聞き手は自己の感性に応じたものをその物語から感じ取る。抽象的様式の昔話は多様な解釈を許し、むしろ求めるので、個々の聞き手により、また同じ聞き手でもその年齢や経験や状況によって様々なものを感じ取ることが、より容易なのではないか。

私はむしろ絵としての不思議さ美しさに大きくひかれていたのですが、これはイコール現実逃避がくれる安心感・安心による幸福感…だったんですね。どんな受け取り方にせよ、安心感や幸福感は生きていく元気をくれる大きな要素です。

昔話はどう発生したのか、みたいなことも

昔話はでたらめな作り話ではなく「完成した形式」を持っている。だから、原始的でも素朴でもない。純粋な文学としてうみだされ(たぶん芸術家の作品であり)、民衆の中におかれたのではないか。ということをマックス・リュティ氏は言っています。そして、民衆の中におかれた状況として二つのことが考えられると。

  1. 民衆が、作品をうまく研磨して自分たちの内的欲求にふさわしく、口頭伝承にもふさわしいものにした。
  2. 作品がはじめから、そういうかたちで提供された。

私は、昔話は語り手が語りながら作り(つまり自然発生的にできた)、それが語り継がれる過程においてきれいな形を得たのだと思っていました。同じような物語が離れた場所にあるのは、たぶん人間の深層心理の底に万人共通にそういうものがあってそれが出てきているんじゃないか…と想像していました。だからこの「昔話は芸術家の作品だ」というところを読んでいるときは不思議な気持ちでした。・・・もちろん真実はわかりませんが。

昔話の時代はすぎさった。しかし伝説のように昔話もより高い段階であらたに実現されることをのぞんでいる。そして古い昔話が、原始的伝説の内容を浄化して吸収したと同様に、新しい昔話は近代科学の内容を吸収できるにちがいない。(p188~189)

ここも意外に思ったところです。でも嬉しくもあります。「様式を注意深くまもるなら、あらたに昔話を作ることは可能である」と、私は解釈しました。いえーーい。

たぶん、昔話はこんなふうな物語なんだろうな、という自分の解釈

一次元性・平面性・抽象的様式によって、エピソードや人物や物、あらゆるものを孤立化させて、それにより他のなにとでも結びつくことのできる能力(普遍的結合の可能性)を持たせ、主人公を確実にすじの終点にみちびいていく物語。

まず「語る・聞く話」として、聞き手の気持ちを引き付けるための主人公や、困難な課題が用意される。 語り手はこの物語を終わらせなければならない。つまり、主人公を必ず目的まで連れて行ってあげなくてはならない。どうする?

主人公は自分で進んでいくことはできないけれど、物語のすじはいろんな手助け(推進力となるもの、つまり危険や困難や援助や贈り物を与える。あるいは時間の一致・状況の一致といった奇跡的な場面をつくる)をして、必ず主人公を目的に連れて行く。

物語のすじ、というのは語り手かもしれない。

  • 主人公は語り手にになわれてすじを進んでゆく。
  • 語り手はあらゆるものを自在にくっつけたり離したりしながら、
  • 主人公を確実にすじの終点までみちびいて行く。

ある程度、語りながらストーリーを作っていってもそれが成り立つような様式が「普遍的結合の可能性」なのではないだろうかと私は思う。その理由をあげてみる。(※でも語ることがその様式を作ったというわけではないらしい)

1・こまかいところまでつじつまを合わせなくてもよかったり。

  • 登場者はすじの上にあらわれたときだけ語られる。登場者の背景などは語られない。だから見知らぬ老人が突然あらわれてフッと消えても全然オッケー。
  • 各エピソードはたがいに関連を持つ必要がない。持続的影響力もなくていい。これは
    「聞き手は次々に新しいことを聞き、古いことは忘れて行く・・・そこで古いことを思い出させるより新しいことを示してあげたほうが聞き手に負担が少ない(と思う)」
    ということにつながっているのではないか。贈り物も一度使えば役目は終わり。
  • そのおかげで同一人物の行為までもが他のエピソードと関連をもたなくなっている(当該人物が関連付けて考えない)。これは私、こういう様式だからと知っていても気持ちが納得できないことがあるんだよね…
  • なんで知ってるの?どこで教えてもらったの?っていう説明なしに重要なことを知っていたり。とにかく説明なしでオッケーだったり。

2・ちょうどそのとき。

出来事は一致して起こったほうが、語りやすいんじゃないだろうか。

  • 「あることがありました。しばらくたって、こんなことがおきました。」
  • 「あることがあったちょうどそのとき、こんなこともおきたのです。」

きっと後者のほうが語り手はテンションあがるだろうし、聞き手にも印象深いと思うし。ドラマチックで「お話らしい」し、奇跡的で不思議でなんだか嬉しくもある。

この 「ちょうどそのとき」のために普遍的結合の可能性が必要なのでは。

そして、抽象的様式のつくる世界が絵としてもあまりにも不思議で美しいために、その絵としての不思議さのほうが重要なのだと思ってしまいそうだけれど…。でも本当は「ちょうどそのとき」の魔法的な不思議さのほうが昔話には大事な要素なのだと、今の私は思うのです。

2012.05.30

  背景画像:フリー素材 * ヒバナ